1720年秋 南山御蔵入の農民が一揆を起こした。
年々厳しくなる年貢 更に、金納を減らし米納の強制・廻米・新規徴税・納期に、限界を感じ、下郷枝松の岩穴にて、代表四十七人が相談し、下郷の百姓800余人が、田島代官所を取り囲んだ事から、始まった。
南山御蔵入領とは、現在の南会津全域と大沼郡の大半、河沼郡の柳津の一部を含む石高5万5千石の幕府直轄地で、これを統治支配する代官陣屋が田島におかれていた。
翌年1月、百姓代表15名が江戸へ登り幕府勘定所へ13ヶ条訴状の訴状を差し出した。法度のはずの直訴状が受理されたことに百姓達は、一縷の望みをつなぎ、後登り18名が加わり、 領内全域の一揆態勢を整えた。
領内271ヶ村が結束強固な組織力で資金を調達し、代表33名の江戸訴人を支えた。 はじめ、これを軽くみていた幕府首脳を優慮させる事態までに立ち至ったのである。 同4月、危機感をもった幕府は事態を収拾させるべく本格的な取り調べを開始した。
百姓の訴状を要約すると
1、高率年貢の引き下げ
2、年貢の江戸廻米の中止
3、年貢金納の村へ米納強制の反対
4、小穀割等の新雑税の廃止
5、郷頭制の廃止
等々であった。
数ヶ月に及び 江戸に滞在してねばる百姓の抵抗に、幕府は、これを押しつぶすには、 資金源を断ち、百姓の団結を分断するしかないと考えた。
惣百姓の代表を標榜する訴人達に、領内の百姓が本当に委任したかどうか、領内全戸を取り調べるという奇策をもって臨んだのである。
代官陣屋を会津藩兵が警固する中で、一人ずつの取り調べに恐怖を感じた百姓は処罰を恐れ、態度を豹変させた。
大方の人が、強制されて資金を出した、村八分を恐れて加わった、などと申し立て、訴人の「惣百姓の代表」という大義名分は、もろくもくずれてしまった。
1722年7月幕府は、農民を扇動して一揆を策謀したとして、一揆の指導者と目される名主3名、百姓3名を斬首、(小栗山村の喜四郎は、田島で捕まり打首)見せしめのため、田島鎌倉崎にさらし首にした。取り調べ中に江戸で牢死者九名も、忘れてはならない。
しかし、百姓が差し出した願いは、幕府も認めざるを得ない部分もあった。幕府は直接百姓の要求を認めるのではなく、直支配を会津藩への預け支配に切り替えることで、
1、年貢米の江戸廻米の廃止
2、年貢金納への米納強制の中止
3、新雑税の一部廃止
等、百姓の要求が実現されたのである。
6名の死は決して、無駄ではなかった。これら犠牲となった方々は、奥会津の人々によって「南山義民」と讃えられ郷土の誇りとして代々語り伝えられるだろう。